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confuoco Dalnara

Passion

二重性もしくはいろいろなものが対になっている。
但し、善悪二元論やキリスト教主義対シオニズムといった単純な二項対立の図式は超える。
善悪の彼岸。
兵士が鞭を打ちつづける残酷性は人間の残酷性であり、
煽動、衆愚や理解心のなさも人間のもつもの。
母が息子を愛し信じる心、キリストが神(父なる神)を信じる心も人間が備えるもの。

人間の低さと不足と世俗性を描きながら
人間の持つ高貴さと潜在能力、可能性を同時に描き出しているように思えた。
人間はどちらの側にも行かれる、という人間性の二義性/ambivalenceを示す。
だから反ユダヤ的ともキリスト教的とも思わなかった。
神性と人間を対比させて描くことで
人間理解を深く促す普遍的な映画と感じた。

兵士が鞭を打ち続ける場面などは
ラテン語で話しているのかアラム語で話しているのかわからないが
監督の演出により字幕をつけていない。
そのシーンに字幕がないこともambivalentだった。
兵士が話す言葉の意味がまったくわからないことから
まず彼らとの距離を遠くに感じる。最初は兵士の残酷さが特殊なケースで、自分からはひどくかけはなれていると思った。
せりふの意味がわからないので
兵士の姿と表情を追いはじめると、
画面が無国籍に溶解して
やがて個人でなく言葉でなく人間の姿だけが普遍的な意味を持って浮かび上がってくる。
兵士の残酷さが、かけはなれたもの特殊なものではなく
どうやら普遍的な意味を帯びはじめる。

神がまだその場に現れないこと(父性の不在)と
そばにいて見守りつづける母の存在の対比も興味深い。

前半はキリストの苦悩や弱さが表現され
後半はキリストの心の強さが描かれ、全体としてもさまざまな二重性が表出しているようだ。
キリストのPassionを通して、映画を通して
多面的な人間の姿、信仰と不寛容、性善と性悪が対立せずに人間理解を補完しているように思った。


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